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仙台家庭裁判所 昭和29年(家)2447号 審判

申立人 村野ゆき(仮名)

相手方 村野幸次(仮名)

相手方 村野はな(仮名)

主文

相手方幸次は申立人に対し金参万弐千参百弐拾四円を支払い、なお昭和三十年六月以降申立人存命中毎月金五千円をその月の十日迄に支払うべし。

申立人の相手方はなに対する申立は之を却下する。

理由

本件申立の趣旨は「相手方両名は申立人に対し、何れも相手方等居住の屋敷内にある相手方幸次の名義の貸家一棟工場の一部を貸家に改造したもの一戸、貸地約三十坪の賃貸料全部(金一万円)を扶養料として支払うべし」というに在り、

又申立の理由は、相手方幸次は申立人の二男にして、同はなは相手方幸次の妻であるところ、申立人は明治四十一年亡村野幸雄と婚姻し、当時綿打の職人をしていた同人を助けて困苦を分ち、それより約十年後に至り、同人が現在相手方の居住している場所において機械を購入の上独立して綿打業をはじめるや、申立人も共に営々として働き今日の事業を築きあげ、昭和十六年○月○○○日右幸雄死亡後は相手方幸次において家督相続をしたので右事業を同相手方をして経営させて来た。しかるに同相手方はもともと申立人や弟妹に対する思いやり等があまりよくなかつたのに、父幸雄が死亡し、事業上も一切をきりまわすようになつてからはその傾向が益々強くなり、次第に増長して遂には毎晩飮酒の上申立人につらくあたるのみならず、時には殴打又は物をなげつける等の暴行を加え、同居にたえられない仕打をしたので、申立人は昭和二十八年十二月二十日、○○市○○○○○に居住する三女きよ方(夫松田武夫は○○○○火災勤務)に別居するの止むなきに至つた。然しながら、同人方に何時迄も世話になるわけには行かないので、相手方幸次より申立趣旨のとおりの扶養料の支払を受け、将来は七男村竹正治と同居して生活したいと考え本申立に及んだ。尚申立人の子供は相手方幸次と他家の養子となつた五男守雄、前記三女きよ、高等学校教諭をしている六男幸政及び東北○○大学の助手をしている七男村竹正治の五人である、というにある。

審案するに、記録編綴の戸籍謄本の記載に依れば、相手方幸次は申立人の二男にして、同はなは相手方幸次の妻であること、申立人の子供は相手方幸次と三女きよ(大正八年○月○日生)、五男守雄(大正十三年○月○○日生)、六男幸政(昭和二年八月○○○日生)、七男正治(昭和五年○月○日生)の五人であることが明かであり、家庭裁判所調査官小針通の調査報告書の記載、萱野与助、村竹正治、村野幸政、松田きよ、申立人村野ゆき(一、二回)相手方村野幸次、同村野はな各審問の結果を綜合すれば、申立人は長年相手方等住居地に於て亡夫幸雄を助け、その創業の綿打業を営み、昭和十六年○月○○○日右幸雄死亡に因り相手方幸次が家督相続をした後も依然家計の財布を握り家業の経営、子弟の監護教育に当つて来たが、相手方幸次はいつ迄も右の如く家計を委されないことや、自己及び相手方はなに対する申立人の口やかましさに不満を感じていたため、平素申立人に対しあまり良い態度を示さず殊に酒好きで酒癖が悪いところから毎晩飮酒の都度申立人に悪口又は暴言をはき、時には打殴等の暴行を加えたこともあり、相手方はなも亦申立人と融和せず何事につけても不親切なため、申立人において遂に同居にたえず、昭和二十八年十二月二十日家を出で○○市○○○○○○○○番地に居住する三女きよ方に身を寄せ、爾来申立人の弟萱野与助等の斡旋にも拘らず、相手方等の許に復帰するに至らず今日迄前記きよ方に食客同様にして厄介になつていることを認めることができる。

そこで申立人が果して扶養を要するか、要するとすれば相手方幸次が扶養義務者として適当であり、且つその経済的余力を有するかについて考察するに、前示戸籍謄本及び調査報告書の各記載並びに各審問の結果に依れば、申立人は年令すでに六十七歳に達して、稼働能力なく、且つ何等の資産を有しないので何人からか扶養を受けなければ生活することが出来ないこと、相手方幸次は前記の如く昭和十六年父幸雄の死亡に因り家督相続をして、その全資産及び家業を承継し、○○市○○○○○町○○番地の一に宅地一二九坪三合四勺、同番地の○に宅地一一坪六合七勺の二筆の土地(昭和二十九年度の固定資産評価額合計二六万三一〇〇円)及び右地上に木造瓦葺二階建居宅一棟外物置、工場、事務所、店舖等の建物(総坪数九四坪七合五勺)昭和二十九年度の固定資産評価額合計約五五万円)並びに綿打機一式を所有し、綿打業に依る年間純所得の最低三〇万円(月平均二万五〇〇〇円、実収人は相当之を上廻ることは申立人及び松田きよ審問の結果により窺知出来る)貸家、貸地に依る賃貸料月合計一万円の収入があること而してその家族は妻はな(本件相手方)及び長男一男(昭和十年○○月○○日生)長女美子(昭和十五年○月○○○日生)二女由子(昭和十七年○月○日生)三女美枝(昭和二十年○月○○日生)四女正子(昭和二十四年○月○○日生)の六人あるも、右長男はすでに相手方等を助けて家業の手伝をしているので前記綿打業は自家労働力のみに依つて経営されて居り借財の存しないこと(相手方幸次は弟幸政の結婚費用として他から金二十万円を借入れ贈与したが、その内十万円未返済である旨調査官に述べているが之を確認すべき証拠がなく、仮に事実あつたとしても今日では時日が経過しているのですでに返済されたものと推認される)が各認められるから、申立人は当に扶養を要するものと謂うべく、又相手方幸次は順位最先の扶養義務者と認めるのが相当であり、且つその余裕を有するものと謂わなければならない。

依つて次に扶養の方法について考察するに前示認定の如く、もともと申立人は昭和二十八年十二月二十日相手方等と別居する迄は長年之と同居し生活していたものであり、相手方幸次審問の結果に依れば相手方等は現在においても同居を拒否しないばかりか申立人の復帰を希望しているというのであるから、申立人が相手方等の許に復帰し同居して生活することが出来ればそれが最も望ましいことであるが、別居するに至つた事情が前記認定の如くである上、相手方等において一回も申立人を呼び戻す為の誠意ある手段をつくしたことがないこと、従つて申立人は同居するも再び従前のことの繰返しとなることを虞れ、同居を希望していないことが、申立人審問の結果(一、二回)に依り明かであるので右同居扶養を適当と認めることは出来ない。

そこで金銭の支払に依る扶養の方法に依らなければならないことになるが、その程度については、申立人の生活費として、食料費及び老後の唯一の慰安とも謂うべき所謂寺参り、親しい親類、知己との間の往来に要する最少限度の小使銭のみにても一箇月少くとも合計五千円を要すること(従つて衣料費、住宅費が計上されていないことは勿論である)は、萱野与助、松田きよ審問の結果に依り之を認め得るところ、相手方幸次は前記資産、収入状態より毎月右金員を支払う余力のあることを肯認することが出来るので、本件扶養の額は右五千円を以て相当額というべく、同相手方は申立人に対し、申立人及び相手方幸次が出頭して本件に付ての調停がなされた昭和二十九年十一月十七日以降申立人存命中(存命中といえども事情に変更を生じ家庭裁判所において本審判が変更又は取消されたときはその時迄であることは勿論である)毎月金五千円をその月の十日迄に支払うべき義務がある。従つてすでに期限の到来している昭和三十年五月分迄の六箇月十四日分の合計三万二千三百二十四円は即時に支払い、その後の同年六月以降の分は毎月期限の十日迄に之を支払わなければならないわけである。

相手方はなは民法第八七七条第二項の規定に依り特別の事情があるとき、家庭裁判所において扶養義務を負わせることが出来る者であるが前示認定の事実に依れば未だ審判に依り同相手方に本件扶養の義務を負わせ扶養料の支払を命じなければならない特別の事情の存することは認められないから、申立人の同相手方に対する本件申立は之を却下すべきものとする。

尚申立人には相手方幸次の外五男守雄、三女きよ、六男幸政、七男正治の四人の子供のあることは前示の如くであるが、同人等に対しては申立人において扶養の申立をしていないばかりでなく、右四名は亡父幸雄の、又同人死亡後は申立人及び相手方幸次の養育や教育を受けたこと以外は何等亡父の遺産を相続していないこと守雄は他家の養子となり申立人との生活関係が比較的薄いこと、きよは他人に嫁し独立の生活を営んでいないこと(申立人が相手方等と別居後一年五箇月に亘り右きよ方に同居して事実上扶養を受けて来ていることは前記認定したところである)幸政及び正治には何れも申立人を扶養する経済上の能力がないことは何れもきよ、幸政、正治各審問の結果に依り明かであるから、相手方幸次以外の右四名の子を本件に参加せしめて扶養料の支払を命ずることは相当でなく、同人等との間に於ては道義的扶助に俟つべきものである。

敍上の次第に依り主文のとおり審判する。

(家事審判官 秋葉雄治)

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